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フォローする ちま🍶 @ilawyc
冥婚。ひとがしぬワンクッション明日はきっとよくなるよインクリングは偉大なる航路の夢を見るか目が覚めたら身体が縮んでいた、なんてのはフィクションの中にしか存在しないことだと思っていた。ずいぶんと小さくなった、ひょろひょろとして爪のない自身の手を見つめながら、おれはばかみたいに間の抜けた表情で立ち尽くしている。地面が近い。
 ぐるりとあたりを見渡せば、目にはいるのは森と海。遮蔽物はなく、どんな角度からでも視界のどこかに水平線が見えていた。抜けるような青空は羊の群れを伴って、柔らかな陽気がすこし冷たい風と共に心地よい微睡みへと誘ってくる。耳を澄ませば鳥のさえずりは聞こえるが、人の話す声などはなく、誰かが住んでいそうな景色でもない。かといって、獣の唸るような声もしない。ともすれば緊張感もなく落ち着いてしまいそうであったが、ここが本当に無人島なら困ったことになるぞという理性がなけなしの緊張感を保っていた。
 そもそも、自分は何故ここにいるのだろう。眠る前の記憶は非常に曖昧模糊としている。自身の属性は記憶の限りでは可もなく不可もない社会の歯車の一員で、見知らぬ土地で目覚めるまでに何か特別なことがあったような記憶はない。昨夜はふつうに眠りについたような気もするし、深く考え込めばそうでないような気もする。つまり、何もわからない。そうであるならば、斯様に立ち尽くしてずっと考えていても仕方がない。人生とはなるようにしかならないのだから、すこしこのあたりを歩いてみようか。流れるような思考は非常にあっけらかんとしたもので、はて、自分はこんなに楽観的な生き物だっただろうかと自問する。まあ、困るものでなしどうでもいいか。
 そうして一歩踏み出した歩幅が想定よりもずっと小さくて、そういえば身体が縮んでいたのだったと思いだした。鏡はないが海が近いので姿を見るには困らない。ぽーんぽーんと跳ねながら、身体のわりにおおきな足跡をやわらかい砂の上に残していく。大したことのない距離が思うようには詰められなかった。地面を踏んだ足の裏がぐにゃぐにゃと定まらず、心なしか常よりも歩きづらいような気持ちがしていた。
 水面が目と鼻の先になるにつれ、何とはなしに気後れする感覚があった。勢い余った爪先が塩水に浸かりそうになりながらもなんとか静止すると、波打つ鏡のなかにはえらくデフォルメされた子どものような姿が映っていた。目の周りが黒く塗りつぶされていて、触手みたいにつるっとした髪が左右に二本垂れ下がっている。見た瞬間もしかしてと気づく程度には、おれはこの姿に心当たりがあった。
「ミ″ィーー!?(イ、イカちゃんだーー!?)」
 最近では発売後三日間で国内売上本数三四五万本に到達した、世界中で大人気のゲーム『スプラトゥーン』に登場するキャラクターだったのである。確か名前はインクリングだった気がする。



 微睡みの終わりにはほんのすこしの違和感を伴った。目蓋はなお閉じたままであったが、陽光が明明と降り注いでいるのを感じる。穏やかな波間を漂うそれの、なんと心地よいことか。けれども、覚醒は余韻を残さない。
 何かがのどに引っかかる感覚がして、次の瞬間には跳ね起きていた。からだの上に積もる葉っぱたちが振り落とされて、辺りをひらひらと舞っている。猫が毛玉を吐く感覚とはこういった感じなのだろうか。咳払いを何度か繰り返し、すっきりしない内側をぶるぶるふるわせる。やがてせり上がってきた何かをけぽっと吐き出せば、地面の上にはミントグリーンの液体がぺちゃりと広がった。少し粘性がありそうだ。一瞬、イカの血とは緑だったかと思考が明後日の方向へと飛んでいきかけたが、すぐにこれはインクだなと気づく。なるほど、墨の代わりにインクを吐くのか。……ああ、だからインクリング。
 ゲーム内でイカちゃんが背負っている自動回復するインクタンクについて、おれはタンクの方に仕掛けがあるものだとばかり思っていた。が、このからだになってはじめてイングリングがインクを自己生成できるのだと知る。改めて考えるまでもなくそりゃそうだろう、名が体を表している。冷静になってみればいっそ自身の鈍感さに驚くが、イカとタコがいてインクを塗り合う陣取り合戦をしている程度の認識でふわっと楽んでいただけだから、生態について真面目に考えたことなどなかった。まったくもってイイカゲンなものである。ところでイカたちが背負ってるインクタンクとはどこにあるのだろう。半分以上を睡眠に費やしたとはいえ丸一日をイカとして過ごしてみたわけだが、どうにもわからないことだらけだ。
 そう、半日以上。謎の状況を立て続けに認識したおれは島の外周をぐるっと一回りするだけして、探索もそこそこに手頃な木の根本に収まると、その辺に落ちていた葉っぱを布団の代わりにしてさっさと眠ってしまったのである。
ありがとう、これで今日も生きていける