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天堂天彦二十二歳は大欠伸をかいた。あまりにも退屈で、今横になればころッと眠ってしまいそうであった。隣に座する両親がそれを咎めるように厳しい視線を送ってくるので、天彦はヤレヤレと思いながらも居住まいを正してキチンと座った。
 今は天彦の見合いの最中である。相手は昔から天堂家として親交のある良家のお嬢さんで、この縁談は向うから持ち出されたものであった。天彦は最初この話を持ち出されたとき、キッパリ「嫌です」と断ったのであるが、母から耳にたこができるほどクドクド説得され、家の面目もあるからマァ見合いだけならということで渋々了承した。
 天彦はこの手の話に乗り気では無かった。何にもとらわれることなく自由な精神を以て多数の女性との交遊を望む彼にとって、法律上の関係を特定の女性と結ぶことは、その自由な精神と交遊を制御する重たく冷たい鎖である。結婚に当たって付随してくる責任は彼にとって邪魔であって、だから一生涯所帯を持つつもりは無い。そもそも家督は兄が継いでくれるので、妻を持つ必要も最悪無いのである。だからこの見合いは天彦にとって退屈で退屈で仕方がなかった。
 双方の両親が畏まって何か話している間、天彦は相手のお嬢さんの容姿をそっと観察した。めかしこんで厚化粧をしていて、派手な着物を纏っている。袖から覗く
頼む、続きが読みたい!
「いらっしゃいませー!」
 巨大で、しかもキンと甲高い声であった。猿川はコンビニエンスストアに入った瞬間この声に迎えられて、一瞬ビクッとしてレジスターのカウンターの方向を睨みつけた。
 猿川と同い年か、それより少し若いくらいの女であった。黒髪を後ろで一つに結っていて、自分で切って失敗したかのように見受けられる若干不揃いの前髪と、丸くて小さくて、愛らしい小動物の瞳みたいな両目が印象的で、「マツイ」と書かれた名札の付けている。
 猿川は喧嘩をした帰り道であった。大怪我はしなかったけれど、いつものように多勢に無勢では矢張敵わず、ちょっとした掠り傷や切り傷やあおなじみを色々な箇所にたくさん拵えてしまったので機嫌が悪かった。そこに底抜けに明るい挨拶を喰らったものであるから、猿川はただでさえ角度のきついツリ眉をグッと顰めて店内に入っていった。猿川は度々この店舗を利用するが、あの女性店員には見覚えが無かった。多分アルバイトの大学生か何かであろう。何となく気になってチラと見てみれば、先輩と思われる男の言葉にコクコク頷いて、栗鼠か鼠のように忙しなく働いている。その様子が見ていて面白かった。
 さて猿川は普段ならここでガムや飴や適当な菓子を買うところを、今日は酒を買おうと思っていた。彼は上戸というわけではないが下戸でも無し、嫌なことがあれば酒を飲むくらいのことはたまにある。少し酔うことができればそれで良いので、適当にワンカップを手にとってレジスターに向かった。ちょっと並んで、猿川に当たったのはあの女性店員であった。
「天彦さんは、いつもあんな時間に家を出て一体何をしているんです?」
「おや、気になりますか」
 昼下がりのカリスマハウス。本橋依央利は夕食の食材の買い出しに出て、他の住人達もそれぞれの用事で家を空け、家の中に居るのは部屋から出てこない湊大瀬と、居間で雑談に興じている草薙理解と天堂天彦だけであった。
 草薙の質問に天堂はニッコリ微笑んで、「それは勿論、性の素晴らしさを世界に発信しているんです」と言った。
「其れがいまいち分からないのですが……」
「理解さんの求むところを察して答えますと、ショウに出てポールダンスを踊っているんですよ」
 天堂は度々、同居人達がそろそろ眠りに就く準備をするような時刻に静かに家を出掛ける。決してやましい事が有ってこうしているのでなくて、彼の仕事は夜遅く、道に人通りも少なくなる時間に始まるのである。
 「世界セクシー大使」を自称する彼が如何にして金を稼ぐかと言うと、レストランやクラブでポールダンスを踊って金銭を得るのである。彼は呼ばれれば何処ででも踊るので、ここいらの界隈に少し知識の有る者ならば彼の名を知らぬ方が珍しい。彼の踊りは日々の鍛錬による力強さと体の靭やかさによる妖艶さを兼ね備えていて、女性のポールダンサーと並んでも引けを取らないと評判が良い。
 彼の返答に、草薙は眉をギュッと顰めて複雑な表情を浮かべた。天堂がポールダンスを踊ることは知っていたし、仕様も無い嘘を吐くような男ではないので彼の言葉が本当らしいということは分かる。夜のショウで踊ることは決して罪ではない。この職を生業とする人はごまんと居るし、ポールダンスは重要な文化、娯楽の一つであるという理解も有る。
 然しだからといって草薙は、同居人に夜の街で働く人間が居るという事実を目の前に突きつけられて黙っている訳にはいかなかった。其れこそ其処に情事の縺れが無いとは限らないではないか。
 天堂は草薙の表情を見て、フ、と苦い笑みを浮かべた。彼は考えている事がそのまま外面に出るので、彼が今何を感じどの様な思考をしているのかが手に取る様に分かる。今迄触れてこなかった事象を初めて彼の「正義」の天秤に乗せているところなのであろう。
 夜間の外出の度にあの巨大な声で言い咎められては堪ったものではない。天堂は草薙の返答を聞くよりも早く口を開いた。
「観に来てみますか、僕のショウ」



「えー、天彦ちゃんのお友達なの〜?」
「ああ、まあ、ええ……」
「やん、可愛い〜」
「お酒飲まないの?」
「え、ああ……」
「あんまり困らせないであげてください」
 草薙の意識は早々に遠のき始めていた。両隣からの甘ったるい声と香水の香り、空気を支配するアルコールの匂いに気が滅入っているところに、聞き覚えのある低い声が聞こえてハッと気を取り戻す。
 眼鏡のブリッジを指で押し上げて声の主……天堂を見上げると、彼は既に衣装に着替えた姿でニッコリ笑っていた。助け舟を出してくれたらしいと一時ホッとしたが、普段と違う雰囲気を纏う彼をまともに見てしまった所為で逆に緊張し、口角がヒクと動いた。
「今夜のお代は全部僕が持ちますから。是非楽しんでくださいね」
「あ、ハイ……」
本橋と猿川が喧嘩をしたのである。一世一代の大喧嘩であった。物は壊れるし罵詈雑言は飛ぶし、ドンガラガッシャンドッタンバッタン、殴り殴られ蹴り蹴られ、血で血を洗う世紀の大乱闘であった。二人は最早意味を為さない掠れた怒鳴り声を上げ、縄張り争いをする肉食獣のようなスサマジイ形相で取っ組み合った。
 この喧嘩はハウスの居間で堂々と行われたが、止めに入る者は無かった。入っていったところで喧嘩は止まらなかったであろうし、二人のここまで激しい剣幕を目の当たりにしたのは誰もが初めてだったので呆気にとられてしまったのである。本橋が他人に対してこんなに喧嘩腰になれるのも意外であったが、何よりも、何だかだと言って今まで同居人に強い暴力を振るったり、罵倒の言葉を浴びせること無かった猿川が、容赦なく本橋を殴って、聞くに耐えないような言葉を吐き出すのが恐ろしかった。
 喧嘩は猿川が優勢であったが、本橋もなかなか食い下がった。しかし最後、猿川の蹴りが彼の胸ぐらを掴んでいた本橋のみぞおちにズンと入って、それで殴り合いは終了した。
 猿川は床に沈んで低く唸る本橋をそのままに家を飛び出してどこかへ行き、本橋はその後ゆっくり起き上がってふらふらと部屋に戻っていった。本橋の目には薄らと涙が光っていた。
 喧嘩の終わるのを廊下から見守っていた同居人たち(伊藤、草薙、テラ、天堂)は、どうしたものかと顔を見合わせた。喧嘩に気付いたときには既に殴って蹴ってが始まっていて、話し合いでの和解という道を捨てた後であったので、事の発端も分からずじまいで為す術もない。兎に角様子を見ようということで、その日は何もせずに各々部屋に戻った。
俺の中学の同級生に、草薙理解というやつがいた。なかなか聞かないような珍しい名前をしていたけど、あいつが変なのは名前だけじゃなかった。
 あいつの学ランはいつもピッチリ上までボタンが掛けられていて、他の男子が行事のときにしか着けない校章も毎日着けてきていた。少し暑さを感じるような冬の日でも、あいつは腕を捲ったりはしなかった。
 上履きは毎週持ち帰っていたのかいつも綺麗な白色をしていて、踵を履き潰したり靴紐を内側に入れ込んだりもしていなかった。ハンケチーフとポケットティッシュはいつでもポケットに入っていたし、鞄や筆箱や教科書や、あいつの持ち物は全部新品も同様に奇麗だった。
 兎に角草薙は他の連中とは違っていた。

 俺が草薙と同じ学級に編成されたのは中学二年生のときだった。始業式の日、俺はあいつを全く知らなかったけれど、一年生のときあいつと同級だったらしい連中がコソコソ喋りながら草薙を盗み見しているのが目に入った。聞こえてくる話を鑑みるにどうやらあいつは嫌われているようで、まぁ問題児など学級に一人はいるもんだしな、と特に気にも留めなかった。
 新しい担任の先生も発表されて、みんなで自己紹介をしようということになった。席の端っこの人から順番に、氏名と簡単な挨拶を述べていく。俯いてボソボソと話すやつもいれば、ちょっとふざけたことを言って笑いを取ろうとするやつもいた。一人の紹介が終わる度に、全員が機械的な拍手を送る。
 まだ学級内で互いに距離を取り、互いを見極めているような雰囲気。みんながそわそわしているのもおかしくない。……が、どうもみんなの落ち着きの無さは、進級したことへの不安や期待のせいでは無いようであった。
 草薙の番が近付いてきた。草薙は俺の三席前、真ん中の号車の左側の、一番先頭の席だった。
 学級内のそわそわは最高潮に達した。クスクス笑ったりするような人も出てきた。先生が見兼ねて声をかけようとする素振りを見せたその時。
 草薙が、ガタンッと音を立てて椅子から立ち上がった。そしてクルリと後ろを向いてこう言った。
「草薙理解! 草薙理解と申します。どうぞ親しみを込めて『理解』と呼んでください」
 巨大な声だった。教室は一時静寂に包まれた。
 草薙の目は赤い色をしていた。あれは我々の行動を抑止する赤信号だった。ピカピカ光る赤信号にジッと睨められて、誰も身動きを取れなかった。
 草薙がその後何も言わないので、先生がパチパチと拍手をした。生徒たちもその音でハッと目覚めるように身体の活動を取り戻して、まばらに拍手をした。
 しかし草薙の隣の席の女の子が恐る恐る立ち上がろうと椅子に手をかけた瞬間、あいつはまた口を開いた。
「中学二年生というのは大切な時期です。来年我々は三年生に進級し、いよいよ高校受験に向かって本格的な準備をしなくてはならない。その基盤になるのは、これから三年生に上がるまでの学習や生活習慣です」
 先までクスクス笑っていた連中が、「始まったよ」とばかりに溜め息を吐いた。誰も突然始まったあいつのスピーチを止められなかった。
「この一年間正しい学校生活を送らずして、人生の成功は有り得ない! 清く、正しく。秩序を重んじて、かけがえの無い思い出を共に作ろうではありませんか」
 今度は拍手の代わりに学級中の苦笑が送られたが、草薙は満足げに椅子に座った。
 次の女の子の自己紹介には、「あんなやつの次になるなんて可哀想に」という同情の拍手が送られた。

 始業式に大変な衝撃を学級にもたらした草薙だったが、俺はその頃、まだあいつのことを悪く思ったりはしていなかった。確かにちょっと変わっているけど、真面目そうだし、ああいう人が一人いたほうが学級は上手くゆくだろう、と呑気に考えていた。
 しかしその考えは一ヶ月と保たず、俺は卒業するまでの二年間をかけて「草薙理解」の異質さを理解していくことになった。
 草薙は毎朝誰よりも早く学校に来ていた。俺の通っていた中学には先生による頭髪検査も荷物検査も無かったのに、俺たちは毎日髪の毛をしっかり整え、無駄な物は決して持ち込まないようにし、制服をキッチリ着こなさなければならなかった。草薙が毎朝校門の前で仁王立ちをしていたからだった。
 男なら必ず前髪は眉毛にかからないようにし、女なら前髪は目にかからぬよう、更に髪の長い子はキッチリ耳より下の位置で結って垂れてくる髪の毛はピンで留めなければならなかった。学ランのボタンは一番上まで留め、セーラー服のスカーフは曲がらぬようにしなければならなかった。さもなければあの鼓膜によく響く声で、「☓組出席番号☓番、☓☓さん! 前髪が目にかかっています。ピンで留めるか切るかしてください!」だの「君は確か一年の☓☓君ですね。ボタンをしっかり最後まで留めてください」だのと口煩く注意される。(草薙は全校生徒の氏名と所属学級とをほとんど覚えていた。全校生徒は少なくとも合わせて五百人以上はいた)
 俺は毎日登校時間ギリギリに校門に滑り込んでいたので草薙の頭髪検査を受けたことは無いが、教室に入ると必ず「遅い!」と怒られた。
 一番恐ろしいのは草薙がこれを自主的に行っていたということで、というのも草薙はどの委員会にも所属していなかったのだ。可哀想に、どこの委員会に立候補しても草薙理解に手を挙げるやつはほとんどいなかった。学級委員を決めるとき、最初は立候補者が草薙しかおらず学級内に不穏な雰囲気が流れ始め、結局その後ほとんどの男子が「草薙に決まるくらいなら」と次々に挙手をし、結果当たり障りの無いような男子が学級委員と相成った。
 人望が無いというより、あいつに役職を与えて更に増長させる訳にはいかないというある種の生存本能的なものが皆に働いてしまっていたのだ。
 そういう訳で草薙はずっと書記係か植物係辺りに落ち着いて、しかし毎日元気良く皆を統制しようと声を張り上げていた。良い迷惑だった。
 どの委員会にも入れなかった草薙だが、一つだけ、誰もあいつの加入を阻止できなかった組織があった。
 応援団だ。
 応援団は体育祭等での応援の他、全校集会等の際に生徒会執行部と連携して指示を出す。草薙の立候補を知ったとき、誰もがやめてくれと心から願ったが、その必死の思い虚しくあいつは応援団に入団した。
 俺たちの敗因は、団員の選出方法が多数決でなかったことにある。応援団の担当の先生が、オーディションによって誰を入団させるか決めるのだ。
 あの声の大きさ、口の達者さ、役職に対する暑苦しいほどの熱意に関して草薙の右に出る者はいなかった。
 俺たちは体育祭の開会式や閉会式、全校集会で草薙が喋るたびに、変なことは言ってくれるなよと切に祈りながら神妙な顔をしてあいつの話を聞く羽目になった。
 一つ助かったこととすれば、応援団長に関しては団員たちの話し合いによる決定だったということだ。草薙は団長にはなれなかった。

 俺は三年生になっても草薙と同級だった。進級し、新しい教室に入ってあの赤い瞳を見たとき、俺は心から絶望した。
 進級後間も無く、俺たちのクラスに転入生がやってきた。確か名前はマエダといったはずだ。
 隣県の中学校から転校してきたマエダは、明朗快活でいつでも笑顔を振りまいている愛想の良いやつで、運動ができて、気の利いた面白いことが言えて、絵に描いたような「人気者」だった。成績は余り良い方では無かったようだが、誰にでも分け隔てなく接し、学級の中心となって皆を引っ張り、面白おかしく皆を一つに纏めていた。マエダは、立候補した草薙を除く全会一致で学級委員となった。
 草薙は三年生になっても相変わらずだった。しかし、俺たちはそれほど草薙の行動に困らせられることは無かった。
 マエダという新たな指導者が生まれたことで、草薙の指示や注意は以前ほど威力を持たなくなったのだ。草薙が声を張り上げるより前にマエダが優しく諭すように皆を宥める。草薙が長々と話す意味の分からない話を、マエダが上手く無視して雰囲気を明るくする。マエダの評価が上がるほど、皆は草薙のことを段々と気にしなくなった。
 二学期が始まったばかりのある日、国語担当の先生が急遽学校を休むことになり、二時限目の国語の授業が丸ごと自習時間となった。唐突のことなので代わりの先生は付かず、何かあったら隣の学級まで来いということになり、つまりほとんど何をしても構わないという時間になった。
 何人か真面目な、または受験勉強を始めているような連中は教材を机に広げていたが、後は各々談笑に興じたり勉強に関係の無いような物を机に広げたりしていた。学級中がガヤガヤとうるさく、最初の方に静かにするよう軽く呼びかけていたマエダも、前の席の男子と喋ってアハハと笑い合ったりしていた。
 誰もあの状況を咎めるようなやつはいなかった。せっかくの先生のいない空間で、互いに「先生が来たときには上手く誤魔化そう」という暗黙の了解の下、やりたいことを好きなようにやっていた。
 開始の鐘が鳴ってから二十分ほど経ったそのとき、当時一番左側の最後列の席だった草薙が、ドン! と机を叩いて立ち上がった。
「うるさい!」
 学級内がシンと静まり返った。
 そして誰もが、ああまた始まったよ……と心中で溜め息を吐いた。お前がうるせえよ、と苦笑いを浮かべるやつもいた。そして皆すぐに興味を無くし、各々の作業や話に戻ろうとした。
 しかし。
「ああ! 愚かだ。実に愚かだ。黙って見ていれば何の益にもならないことをペチャクチャペチャクチャまあよく喋る。ああ、ハハ。さながらここは動物園の猿山だな、一年生たちの校外学習には我らが教室が相応しいかも知らん。言ってる意味が諸君に分かるかい。何も考えずにキーキー鳴いて喚く猿のようだと言うんだよ、僕は」
 草薙は止まらなかった。いつもと様子が違っていた。あいつは自分の席から教壇に向かってゆっくり歩きながら、ニコニコ笑ってあの脳に響くような大声で話し続けた。
「賢い君たちにはよく分かるはずだ。『授業中に騒いではいけない』。たとえそれが先生方不在の教室で行われる自習の時間であってもね。なぜか? 学級の、学校の風紀が乱れてしまうからだ。風紀の乱れ、それ即ち先の諸君の態度だ。」
モブ女?注意そのコンビニエンスストアは入ってすぐのところにレジスターが設置されていて、だから客は入店してすぐカウンターの中の店員を横目に店内へ進んでいくのであるが、その日|猿川慧《さるかわけい》はいつもの通り店に入って、いらっしゃいませと甲高い声で叫んだ見慣れぬ女性店員を、お、と思ってちらりと一瞥した。アルバイトであろうか、どこか初々しい雰囲気を纏う彼女は学生にも見えれば猿川と同じくらいの年齢にも見え、いかにも日本人という顔立ちで、目も鼻も口も耳までも造りがちんまりとしていて可愛らしい印象を与える。所在なさげにカウンター内をうろうろして、先輩であろう店員の言葉にこくこくと頷いてにこにこしている様子から新人であると分かるが、会計時の動きなどはてきぱきとしていてなかなかしっかり者であるらしい。
 猿川はちらちらと彼女を盗み見ながら商品を物色した。適当な菓子と炭酸飲料を手に取り、さて何気ない風を装って連絡先でも聞いてみるかなと意気込んで、会計に向かおうとしてはたと立ち止まった。そして|一寸《ちょっと》考えてから視線をカウンターの背面の壁に向ける。何だか菓子とジュースだけを買うのは格好がつかないような気持ちがしたので、たまには煙草でも買ってみようかと、要は普段吸いもしない煙草を背伸びして買ってカッコつけようというわけであるが、そういうことで思い立ってまた彼女の居る会計へと進んだ。
「商品お預かりいたします」
「あー、あと、タバコ」
 猿川は煙草の銘柄も勿論番号なども知らないから、ぶっきらぼうにこう言って商品を置いた。しかしまぁ色々あるもんだなと棚をじっと見ていると、やけに彼女の返答の遅いのが気になって「オイ」と声を掛ける。彼女は猿川の顔をじっと見、それからその下の体をじっと見、もう一度顔をじっと見つめて、
「申し訳ございませんが、未成年の方にお煙草を販売することはできません」
と、こう言った。
 猿川は驚いて、ピッと目を見開いて。暫し口も聞けずにタップリ黙り込んでから、
「あ? 未成年? 俺が? どっからどー見たって成人男性だろォが!」
と、青筋を立てて怒鳴った。驚いたやら、恥ずかしいやら、とにかく自分の自尊心がことごとく壊されるのを彼は感じた。それは今まで未成年に間違われたことなんぞ幾らでもあったし、マァ老けて見られるよりは幾らかマシであろうと思ってそこまで気にもしなかったけれど、今から口説いてやろうかと思って近付いた女に言われるのでは訳が違う。もう引き返しも付かぬから、じゃあもう煙草は良い《い》と吐き捨てて、彼女が商品をレジスターで読み込むのを、眉をしかめながら黙って見つめた。怒鳴られた彼女は怖がる様子も無く、商品を丁寧に袋に詰めて愛想の良い笑顔で、「ありがとうございました!」と言って猿川にそれを渡したのであった。



「マァ猿ちゃん若見えするからねェ」
「だァらってあんなに真正面から言うか? 普通。本当に未成年じゃなかったらどうすんだよ。『未成年の方にお煙草を販売することはできません』、じゃねーよ」
「お仕事なんだから仕方ないでしょ、文句言わないの」
 猿川が帰宅してからずっと不機嫌でリビングのソファに腰掛けていたので、夕飯の準備をしていた|本橋依央利《もとはしいおり》は一段落ついてから、話を聞いてやろうと思ってその隣に座った。一部始終を聞いた本橋は何をそんなことで怒っているのかと少し呆れたけれど、彼には彼なりの譲れないものもあろうしと思って取り敢えず当たり障りないようなことを言って、猿川の頭をぽんぽんと撫でた。猿川はその手をやんわりと払い除け、唇を尖らしてぶつくさと言っていたが、本橋にたしなめられ口を閉じた。
「ていうか、いつも煙草なんて吸わないじゃない」
「吸っちゃわりィかよ」
「要はさ、女の子の前でかっこ付けたかったんでしょ? 可愛いの? その子」
「ア?」
 本橋は猿川と距離を詰めて座り直し、口の端をにやりと持ち上げて小声で尋ねた。猿川はこのとき初めて自分の行動が間違っていたことに気づいた。つまり、本橋は服従を愛する前に元々が節介焼きであるから、こんな話を持ち掛ければ彼が水を得た魚のようにあれやこれやと探ってくることは予測できたはずであったのにも関わらず、不機嫌が募りよく考えもせずにありのままを話してしまったのは失敗であったということである。確かに猿川はコンビニエンスストアの彼女に、俗に言う一目惚れをしたのかも知れない。彼女と同じ空間に居た時間は多くて五分程度のものであろうけれども、その短時間、彼女はただ不器用ながらに堅実に仕事をこなしているだけで猿川の心を捉えたのであった。猿川の中で、彼女に対する感情は確かにそういうものであった。しかしこの感情を他人に知られるとなると、これは猿川にとって目下一番避けたいことであった。一目惚れなどしたと知れたらと思うと背中に悪寒が走った。同居人たちにからかわれる未来は手にとるように想像できるし、何よりまるで中学生みたいな恋の仕方をしている自分が恥ずかしかった。だからなるべく隠し通して、万が一に上手くことが進めばそれとなく皆に伝えようかということを漠然と考えていたのである。しかし、時既に遅し。猿川は本橋の意地の悪い視線から逃れるように顔を背け、居心地悪そうに頭を掻いた。
「猿ちゃんの女の子の好みとか、よく考えたらそういう|話《はなし》したことないよね。ね、どんな|娘《こ》なのさ」
「……」
「その子の連絡先欲しいんでしょ? 協力してあげるから教えてよ」
「ぜってェ教えねェ」
 猿川はキッ、と本橋の顔を睨みつけてソファから立ち上がった。本橋は飽く迄これ以上口を割るつもりの無さそうな猿川の様子を見ると、苦笑を浮かべながら背もたれに両腕を広げてもたれかかった。いつもならこういう具合に反発されれば、それ以上声を掛けないようにする。埒が明かないし、あれが彼の|カ《﹅》|リ《﹅》|ス《﹅》|マ《﹅》なのだからそれを尊重してやろうという気持ちもあった。然し、今回ばかりはいつものように見過ごすわけにはいかなかった。慧が誰かに明確な恋愛的好意を寄せるなど極めて珍しいことであるのに、それを彼のあの頑固さと天邪鬼でふいにしてしまっては勿体ない。確かに面白がっているところが無いと言えば嘘になるし、この後は絶対にハウス中の皆に言いふらす心づもりであるけれども、友人として、彼の恋を応援したいというのもまた本橋の正直な気持ちであった。
「言ったね? じゃあもうその子のことについて何にも喋っちゃ駄目だよ」 
 居間を後にしようとする慧に、本橋は切り札を叩きつけた。猿川の肩がぴくりと揺れる。彼は短く吸った息を長く吐いて、それからゆっくり本橋の方を振り返った。かつて無いほどの葛藤が表れた親友の複雑な表情に、本橋は吹き出しそうになってそれを賢明に堪えた。そして猿川の言葉を待った。 
「……俺とおんなじくらいの歳の女。声が高くて、……なんかレジんとこでウロチョロしてんのが小動物みてえだった。髪は後ろで結んでて、黒髪で、化粧も別にしてねェんだけど。目が丸くて、鼻とか口とかがマァちっちぇェの」
「うん」
 猿川は言ってから、ずかずかとまたソファに戻ってきて本橋の顔をむんずと掴んだ。本橋は努めて真面目な顔をしていたつもりであったけれど、実際は、猿川が柄にもなく女性の容姿を褒めるような言葉を紡ぐのがいかにも可愛らしくて口角のにやけるのを抑えきれていなかった。猿川は顔をこれ以上無いくらい耳まで真赤にして、不服そうな顔で本橋の頬をつねった。
「痛、痛いって、ふふ、あはは」
「笑ってんじゃねェぞ!」
「ごめん、ごめんってば、ふふふ」
「ぶっ殺す」
「分かった、分かったから! ね、笑って悪かったよ」
 本橋は猿川の手を引き剥がして、それでもまだ笑いを堪えられない様子で侘びた。
「馬鹿にして笑ってるんじゃないんだ、猿ちゃんにも春が来たなぁって、嬉しいから笑ってるんだよ」
「馬鹿にしてんじゃねぇか」
「してないってば」
テラは自らの身なりに大変気を遣う男であって、顔の化粧や髪の毛の手入れなどに留まらず、身に纏う衣類に付着する埃一つにさえ目を光らせ、手足の指の一本々々の先まで常時完璧にしておかなければ済まないというのが彼の信念であった。だから居間の椅子に何十分も座っていたり、洗面所を何時間も占領しているときの彼は、決まって爪にちまちまとネイルを施していたり、ヘアーアイロンで髪を整えていたりする。彼は容姿を整える工程を他人に見せることを厭わず、というのは彼の美しさは彼の為にあるのであって、他人からの好評も悪評も、彼にとっては預かり知らぬ世界の意味の無いものとして感ぜられるのであった。
 或る日も彼は又居間の自分の席に長い脚を組んで腰掛け、ネイル用の道具をダイニングテーブルの上にずらりと並べて爪にちまちまとやっていた。台所では本橋依央利がトントンガシャガシャと朝飯の用意をしてい、他に人は居なかったのでその作業音と空調の断続的な動作音が静かに響いていた。
「アレ、又爪きらきらにしてるの」
「ん? ……ウン」
「奇麗だねェ」
 一段落がついたのか依央利が台所から出てきて、濡れた手を布巾で拭いながらテラの作業を覗き込んだ。テラは視線を指先から外さないまま、「今日のご飯何?」と聞いた。
「ホットサンドにしようと思ってたけど、手を使わないものの方が良いかな」
「んーん、大丈夫。ありがとう」
「はーい」
 それ以上話は続かず、テラに他人との交流の意志が無いのにはもう慣れっこなので、依央利は物干し竿の洗濯物を取り込みに出ていった。
 それから暫くして、テラはウンと唸って背筋をぐっと反らせて伸びをした。細かい作業に夢中で集中していたので、体の緊張が解れたのかふ、と小さな溜息が飛び出した。奇麗に完成したネイルを見て満足気な顔を浮かべ、暫く自分のその作品に見入った。
僅かですが、虫、性的表現が含まれるため、15歳以下の方の閲覧は非推奨です。ワンクッションDom/Subユニバースの本橋と猿川
恋愛要素無し
オチも無し(完成していないから)
「……え、意味分かんない。何かの間違いでしょこれ……」
 にわかには信じがたいものを目にし、本橋依央利は愕然として思わず声を洩らした。
 それというのは、先程郵便受けから取り出した一通の書類である。表に「診断結果在中」とあって、何の診断かというと、この世界に存在する第二の性別(Dom、Sub)を自分が持っているのか、持っているのであれば自分はいずれの性別に当てはまるのかということが分かるものである。そして彼に届いた診断結果が示すのは、「本橋依央利はDomである」という、彼に多大な衝撃を与える事実であった。
 「服従のカリスマ」を名乗る彼が、自分はSubであると信じて疑ったことは無かった。この診断は成人した者が自らの意思で受診することを推奨されているものであるから、彼もこれまで正式な診断を受けたことは無かったのである。しかし彼を知るどんな人に聞いてみても「あいつはSubだろう」と答えるであろうし、インターネットや書籍などに掲載されたセルフチェック表で調べてみても、Domであるという結果が出たことはただの一度も無かった。
 これはいかなることか。診断を受けた機関で手違いがあったに違いない。そもそも自分から「服従する」ということを除いてしまえば、存在意義そのものが危ういのである。彼は一瞬にして早まった鼓動をゆっくり落ち着かせながら、これは何かの間違いであるということを自らに諭すように深呼吸をした。
「……ちょっと楽しみにしてたのに、拍子抜けだなァ」
「何が?」
 独り言のつもりで呟いた言葉に、本橋の背後から返答があった。
 驚いてバッと振り返ると、それは猿川慧の声であった。早朝であるから誰かが居間に居るとは思わず、心臓がドクンと跳ねて手から書類が滑り落ちた。
 猿川はそれに目ざとく気付き、本橋が止める前に指先でひょいと拾い上げて書類上の文字を目で追った。読み進めるにつれて、明らかに面白いものを見つけた、と言うような表情が彼の顔に浮かび、それを見た本橋は一つの恐ろしいことが頭に思い浮かんで顔から血の気の引くのを感じた。
 つまり、他の人にこの診断結果が知れると、事実がどうであれ自分に命令を下してくれなくなるのではないか、と考えついたのである。いわば政治家のクローゼット問題のように、Subであることにコンプレックスを感じ、カムフラージュのためにわざと高圧的な態度をとる人は珍しくなく、Domの場合もまた然りである。もしもそのように勘違いされたら、自分を奴隷としてくれる人がいなくなってしまう……。彼の心臓がドクドクと激しく鼓動し始める。それだけは、自分が「滅私、貢献、奉仕」をすることが出来なくなることだけは、彼にとって命を失うことよりも絶対に防ぐべきことであった。
「いお、Domだったのかよ」
「か、返して」
 猿川は紙をひらひらと右手で弄びながら、口の端をにやりと歪ませて言った。
 本橋はそれどころではない、紙を掴もうとして猿川に飛びかかるけれども、猿川はそのたびに上手く交わして、小馬鹿にしたような態度をとる。
「はー、服従のカリスマが、まさかDomとはなァ」
「返して、ってば、ねェ」
「理解ー! ちょっと来てみろよ!」
「やめて! 猿ちゃん、返し」
「いおが──」
『返して!』
 静かな空間に、本橋の声が響いて長い余韻を残した。
 と、猿川の膝がまるで後ろから力をかけられたかのようにカクンと折れ、彼は一切の抵抗無しに床にへたりと座り込んだ。そして、手に持った紙を呆気なく本橋に差し出す。彼の顔には困惑と、この状況に抗おうと試みる色が浮かんだけれども、瞳だけは本橋の方をうっとりと見上げるのであった。
 本橋はハッとして、紙を受け取ってから猿川の前に跪き、彼の顔を両手で挟んでゆすった。
「さ、猿ちゃん? どうしたの」
「……」
「猿ちゃん? おーい」
 猿川はボウッとした顔で本橋の声を聞いていた。いつもの、何もかもを突っぱねて我が道を行くのだという強気な表情は面影もなく、微睡んでいるかのようなおぼろげな表情がこのときの彼の顔には現れていた。
 本橋はその様子を見て、そしてア、とまた思いついて愕然とした。もしも先程の『返して』という自分の言葉が今の猿川に作用しているのだとしたら。猿川の第二の性別について聞いたことはなかったけれども、Domである自分の言葉にこの反応を示したとなると、彼がSubであると考えるのが妥当である。しかし、「反発のカリスマ」を名乗る彼が、である。あれほど他人からの指図を嫌う彼が。
「……あ……?」
「猿ちゃん?」
 ふ、と彼の表情が元に戻った。
 本橋がほっとして声をかけると、猿川はしばらく体を硬直させてから、唐突に立ち上がってダッとその場を立ち去ろうとした。
「ま、待って」
 狼狽えた本橋の制止の声は先程の言葉程の威力を持たず、先まで猿川のいた空間に虚しく残留した。居間から出た途端に猿川とすれ違った草薙理解のもの問いたげな表情に、本橋は曖昧な笑みを返すことしかできなかった。



 この後、猿川は一日中一度も同居人たちの前に姿を現さなかった。食事ができたと呼びに行っても返事は無く、扉を開けようとすると強い力で押し返された。
 本橋は焦った。DomがパートナーでもないSubに何の承諾も得ずにコマンドを出すことは、たとえ意図せずしたことであれ重大なマナー違反であるし、Subの尊厳を踏み躙るとんでもない行為である。謝らなければならない。本橋がDomであると知ったときの猿川の行動は、よく考えてみればあれは彼がSubという性別を持っているが故の過剰な反応であった。普段の彼であればあそこまで人を馬鹿にするような態度はとらない。彼は往々にして他人の悩みごとや秘密に対して寛容であり、また深く干渉することを嫌っている。
 咄嗟のことであったとはいえ、自分は何ということをしたのか。
 後悔の念に苛まれながら、本橋は猿川の部屋の前に立った。夕食の誘いも無下に断られ、しかし何も食べずにいることはできないはずであるから、おにぎりを握ってラップをかけて、それを皿に乗せて持ってきたのである。コンコンコンと三回ノックをしてみるが、中からの返事は無い。
「猿ちゃん、さっきはごめんね」
 声をかけてみるが、中からは声はおろか、物音すら聞こえない。そっと扉に手を掛けてみると、夕食に誘ったときまではあった猿川からの抑止は一切なく、いとも簡単にそれは開いた。
 いつの間に抜け出したのか、部屋の中はもぬけの殻であった。いつも乱雑に物が置かれているこの部屋は、このときにはさらにひどい有様で、人が暴れ回ったような痕跡が随所に見られた。さらには家具の引き出しという引き出し全てが開け放たれた状態になっていて、まるでこの部屋だけ空き巣に入られたかのようであった。猿川がどこに行ったのかは分からないが、彼が夜に勝手に飛び出していってしまうことは日常茶飯事であるし、本橋は取り敢えずこの部屋の片付けに手を付けることにした
 おにぎりの皿は適当なところに置いておいて、引き出しを全て閉め、倒れた家具は元に戻し、ごみと思われるものは一箇所にまとめた。
 と、ふとそのごみの中に同じようなものがいくつもあることに気が付いた。錠剤が入っていたであろう容器が何個も何個も見つかるのである。全て同じ赤色をしてい、錠剤が入ったままのものは一つも無かった。
「こんな薬うちには置いてないんだけどな……」
 不思議に思いながらも、本橋はごみ袋を持ってこようと思ってよいしょ、と立ち上がろうとして。
 背後からガチャリとドアノブを回す音が鳴るのを聞いた。彼は振り返らなかった。しかしその音の主が猿川であることは分かった。しばし、息の詰まるような沈黙が狭い部屋の間にすっと通り過ぎた。
 猿川はバッと踵を返した。バタンと大きな音を立てて扉が閉まった。
 本橋はハッとして立ち上がり、勢いよく扉を開いてまだすぐ目の前の距離にいた猿川の上着を引っ掴んだ。
「猿ちゃん、ごめん、失礼なことをしたのは分かってる、本当に、そんなつもりは無かったんだけど、でも」
「離、せ!」
 猿川は身をよじって、本橋の手から逃れようと必死に足掻いた。
 しかし本橋の手は決して猿川から離されることは無かった。彼は下唇を噛みながら猿川の腕をがっしと掴み、猿川の部屋の中に猿川を引き込むように後退した。
 兎に角話し合いをしなければならなかった。自分は猿川のSub性を知ったからと言ってどうこうするつもりはないということ、先のコマンドは意図せず出たもので、決して猿川に指示をするためのものではなかったということを分かって貰えねばならなかった。
 彼は半ば引きずるようにして部屋に猿川を引き込み、バタンと扉を閉めて、逃げ道を塞ぐようにその前に立ちはだかった。
「……退け。早く出てけよ」
「猿ちゃん、話を聞いて」
「殴るぞ」
「殴ってもいいけど、でも僕の話も聞いてよ」
「……」
 猿川はふっと黙って、床にどしりと腰を下ろして本橋を睨みつけた。
 本橋はこれを了解の意と解釈して自分も床に屈んだが、先に口を開いたのは猿川であった。
「次はどんなコマンドを出すんだよ。『Come』? 『Stay』? それとも何だ、『Good boy 』って犬にするみてェに頭撫でりゃ満足かよ。あ? 今まで俺たちはいいダチだったよなァ。俺たちは対等だった。それがよ、お前がDom、俺がSubって分かっちまえば、お前は俺を軽蔑するし、俺はお前のいいおもちゃになるってわけだ」
「違う猿ちゃん、そんなこと言いにきたんじゃないってば」
「何度だって言うぜ。俺は誰からの指図も受けねェ。DomだろうがSubだろうが関係無い、俺のことは俺が決める」
「ね、違うんだって。僕は君に謝りたいんだ」
「……何を」
「今朝、間違ってコマンドを出しちゃったこと。自分がDomだなんて、あの診断結果が届くまで本当に知らなかったんだよ。だって僕は前向きで自発的な奴隷なのに……、人に命令を下すなんてそんなこと、できっこ無いんだよ。正直アイデンティティーを奪われたような気がして、物凄くショックだった。あの結果は誰にも見られたくなかったし、自分でももうあのことは忘れようと思ってた。だから猿ちゃんにあれが見られて、なんか焦っちゃって。……ただの言い訳なんだけどね。でも本当に、あのコマンドは思わず出ちゃったもので、だからそう、あのときは猿ちゃんがSubだなんて思わなかったし……。上手くまとまらないけど、ごめんね。きっと僕には想像つかないくらい、不快な気持ちをさせちゃったと思う」
「……」
「それから……、猿ちゃんがSubだからってどうこうしようってことは全く考えてないから。猿ちゃんが誰かから指図を受けるのが嫌いってのは僕もよく理解してるし、何よりも僕が嫌なんだよね。人に何か言ってもらわないと、何もできないんだもん、僕」
 本橋はここまで一気に話して、それから猿川の反応を待った。
 猿川は黙りこくって、床の一点をじっと見つめていた。
 しばらく沈黙が続き、とうとう痺れを切らした本橋が「猿ちゃん?」と呼びかけると、猿川は小さな声でぼそりと何事かを呟いた。
「えっ、何?」
「……」
「ごめ、聞き取れなかっ」
「……悪かった」
「え」
 本橋は言葉を失った。猿川の謝罪の言葉を聞いたのはほとんど初めてに近かった。彼が自分の行動を詫びるような言葉を発したという事実を、本橋は受け入れられなかった。そもそも謝られるようなことをされた覚えが無い。
 本橋は大いに困惑したが、猿川はその後もぼそぼそと言葉を紡いだ。
「いおがそんな奴じゃねェってのは分かってる。お前は根から馬鹿みたいに世話焼きで、優しい奴だってことも。伊達にガキん頃から一緒に居るわけじゃねぇし」
「う、ん……」
 本橋は途端に気まずくなって、落ち着きなく視線をきょろきょろ動かした。こんなに唐突に褒められると、どうしたら良いものか分からなくなる。
 自分のしたことに比べれば猿川の行為はむしろあって然るべきものであったのだから、返せる言葉も無い。
 どうにか話題を転換させられぬだろうかと一生懸命思考して、あ、と思い出す。
 あの大量の錠剤は一体何なのか。
 元はと言えばあのごみをまとめようと思っていたのだから、折角である、聞き出してみようと猿川に目を向ける。……と、猿川の瞳は閉じられ、体は前後にゆらゆらと揺れていた。どうしたのか知らと見ていれば、彼の体が急にバタンと倒れた。



 バタバタと取っ組み合ったり些か大きな声で喋っていたこともあって、部屋が近い草薙理解と、仕事から帰ってきていた天堂天彦が心配して様子を見に来た。
 本橋は猿川が倒れてからスッカリ憔悴して頭が石の乗っかったように重く、心臓が忙しなく鼓動してろくに立っていられなかった。
 天堂はDom/Sub性について妙に詳しく、本橋に様々なことを伝えてくれた。天堂曰く、まず猿川が倒れた原因は本橋にあるという。
「依央利さん。ご自身では気が付いていないでしょうが、あなたからは相当強いGlareが出ています」
「Glare……って、何でしたっけ」
「明確な説明は難しいですが、Domが持つ特有の気迫、のようなものでしょうか。Subを従わせるときに発したり、これの強さでそのDomの格が決まるものです。猿川君は多分、君の強いGlareにアテられて体調を害したのでしょう」
「はあ。で、でも、僕、猿ちゃんにコマンドを出したのは一度きりで、それもわざとじゃないんです」
「コマンドを出さなくとも、Glareが出てしまうことはあります。……意図せずにそれほど出てしまうとなると、Dom性の暴走も視野に入れなくてはならない」
「暴走?」
「依央利さんは最近まで自分がDomである事実を知らなかったが故に、Domとしての欲求を無視してしまっていた。決して自覚が無くとも体には大きな負荷がかかっているはずです。その結果Dom性の暴走を引き起こし、意図せずしてGlareが放出されてしまうんです。君の意思に、君の本性が抗おうとしている」
「……そんなこと、知らなかった。じゃあ僕がもっと早くこのことに気付いていれば……」
「自分を責める必要はありません、依央利さん。知らない人のほうがうんと多いんですよ」
 本橋は脱力して、床にへたり込んだ。自分の無知を呪い、恥ずかしく思った。
 なぜあのとき、猿川に誤ってコマンドを出してしまったとき、自分のDom性について調べようと思わなかったのであろう。否あのときばかりではない、きっと今まで猿川は、知ってか知らずかは定かでないけれども、ずっと本橋のGlareによる体調不良に悩まされていたはずである。そしてあの錠剤は……。
「猿もまあ、こんなことになるまでよく耐えたものですよ。……薬は用途用量を守らなけりゃ意味が無いってことを教えてやらないと」
 草薙が錠剤の空き箱を手に持って中の説明書を取り出しながら言った。
 あれはSub性の抑制剤であった。猿川の体調不良の一因として、この抑制剤を過多に摂取していたこともあげられる。
 本橋はウウと唸った。いかに考えても非があるのは自分であった。
「Glareを抑える方法は無いんですか、薬とか」
「Glare自体がまだ謎の多い存在ですからね。この抑制剤も、Sub用と銘打ってはいますが効能は他の薬とほとんど変わらないんです。ただ、Subに少しだけ効きやすいというだけで」
「えぇ……」
「Glareを抑えるのに一番手っ取り早いのは、パートナーとプレイをすることです。Dom性が満たされれば暴走は収まりますから。ただ……」
「Subとパートナーを組むには相当の信頼関係と相互の同意が必要です。猿はマァ……こんなタチでは絶対にノウと言うだろうし、プレイで主導権を握るのはSubの役目です」
 草薙が天堂の言葉を途中から引き継ぎ、懇願するような目でこの状況の打開策を尋ねる同居人に事実を伝えた。
 天堂はDom用の風俗店もあるにはあることを知っていた。が、政府からの線引が曖昧なのを良いことに倫理観ぎりぎりのところで経営している店が多く、大人として若人に勧めるのは憚られる。
 できることならば本橋と猿川がパートナーになり、プレイによって互いの欲求を満たし合うのが望ましい。
 ああ二人の性別が逆であったなら事が拗れることも無かったのに。
 この場に居る──猿川を除く──全員が神の無慈悲な采配を呪った。
「取り敢えず、今夜は解散しましょう。猿川君の面倒は私が見ますから」
 天堂がこう言ったので、本橋は草薙と共に猿川の部屋を後にした。今回ばかりは、「それは僕の役目!」なんて駄々は捏ねていられなかった。草薙が気を遣って「そうだ。私、夜食が食べたいなァ」とこれ見よがしに言ってきたので、本橋はしょんぼり肩を落としながら暗い台所でおにぎりを握った。



 本橋は、急に体を撫ぜていったひやりと冷たい風にぶるっと身震いをして目を覚ました。ぼんやりとした頭で周りを見回すと、どうやら台所に座り込んで寝落ちてしまったようである。
 ふと、先からジャーッという音が上から聞こえてきていたのに気付き、立ち上がって確認してみれば蛇口から水が流れていた。一晩中このままであったのかと思うとゾッとして、急いで蛇口を閉める。
 恐る恐る横に視線を動かすと、皿と、米を冷凍するための容器が、カチカチに固まった米粒を付けたまま放置されていた。はぁと大きく息を吐き、いつ寝たんだろうかと昨夜の記憶を掘り起こしながら皿を水につける。
 確かあの後、草薙がおにぎりを食べ終わり、洗っておくから、と、夜中の食事に罪悪感の隠しきれていない草薙を横目に皿を回収して……。そこからの記憶が無い。
 皿などは兎も角、一晩中水を流して一体水道代がいくらになってしまうのかということが恐ろしい。皆に謝らなければなと思いながらこびりついた米と格闘していると、各々の部屋のある方向から足音が近付いてきた。
「随分早起きですね。それとも寝ていないのですか」
 足音の主は天堂であった。
 猿川だったらどうしようと体を強張らせていた本橋は、ほっと胸を撫で下ろし、「さっき起きたところです。ここで」と苦笑を浮かべた。
「ここで?」
「へへ、寝落ちちゃったみたいで。……あの後、理解君に夜食を作ったんです」
「夜食。理解さんが。珍しいこともありますね」
「僕に気を遣ってくれたんですよ」
 天堂はダイニングテーブルの席についた。
 本橋はあの後猿川がどうなったのかが気になったけれど、それを聞くのが何か少し恐ろしくもあり、天堂から言い出してくれればなと期待を寄せながら皿に付いた水滴を布巾で拭き取った。
「では私は眠気覚ましに珈琲を頼もうかな」
「はーい」
 天堂が本橋の瞳を覗き込みながら微笑んで言ったので、本橋はサッと視線を逸して普段通りの返事をした。この珈琲を淹れて彼の前に置いたら、そのときに話が始まるのであろうということが予感されて、体が緊張した。
 珈琲をカップに淹れて天堂の前にことさら恭しくそれを置くと、天堂は視線で向かいの席につくよう本橋を促した。
 学生時代の教師との面接を思い出し、本橋は落ち着きなく髪の毛をいじりながら席についた。
「……Dom/Sub性の検査対象を成人に限定するのは宜しくない。あの検査に強制性はありませんから、……今回のようなことはよく起こるんです」
「……はい」
「自分の性と向き合う時間は、どんな人にも平等に与えられるべきものです。それは自分のためであり、これから出会う大切な人々のためでもある。それが十分に与えられない今の世の中は不健全です。君のような若者を、少なからず見てきました」
「……」
「君は服従のカリスマ。他に貢献することに関してのプロフェッショナルだ。これは君の才能でありアイデンティティ。……それが、Domという性によって失われるようで恐ろしいのでしょう」
 猿川の容態についてを聞かされるものだと身構えていた本橋は、拍子抜けしながらも天堂の言葉を聞いた。
 彼の言葉には説得力があり、彼の顔には、まるで優しい父親のように心に寄り添ってくる表情があった。なぜか本橋は、ともすれば泣きたくなるような感情に駆られた。口を開けばぎりぎりのところで抑えているものが決壊してしまいそうで、黙りこくって小さく頷く。
 確かに自分は怖かったのだ、自分が奴隷として必要とされなくなることが。
「しかし依央利さん、君はDomになるべくしてなったのです。そのことを受け入れなければなりません」
 天堂はカップを傾け、カップ越しに本橋を見つめる。
「人の短所が裏を返せば長所になるというのはよく聞く話です。当然逆も然りなわけですが、依央利さん。君の第二の性が君のアイデンティティを失わせるものではないということを忘れないでください。寧ろそれは、内なる欲望を開放するための鍵となるものなのです」
 本橋は、天堂が何を言っているのかが分からなかった。要所を避けて遠回しに話されているようでもどかしかった。
 どういうことなのか問い正そうとすると、天堂は「ご馳走さまでした」と言って席を立ったので話しかけるタイミングを失った。
「美味しかったです、ありがとう。猿川君ですが、もうすっかり元気になったようです。後でお水でも持っていってあげてください」
 天堂はこれだけを言い残して部屋に戻ってしまった。
 本橋は口を聞けず、しばらく席についたまま珈琲のカップを見つめていた。



 本橋は迷っていた。
 水を注いだコップを手に台所を右往左往し、少し足を外に踏み出してみて立ち止まり、意味も無くシンクの水滴を拭き取ってみたり、居間の時計を確認したりと落ち着きが無い。
 冷や汗がうなじやこめかみのあたりにすっと流れて、暖房の効いた部屋にあっても指先には血の気が通っていなかった。
 他人のための行動を起こすのにここまで悩むのは初めてであった。しかもたかが飲み物を渡して戻ってくるという容易な作業である。馬鹿みたいだと思いながらも、本橋は中々台所から出ることができなかった。
 猿川に水を持っていくのを遠慮しているのであった。だって、また自分のGlareで体調を崩させてしまってはいけないから。昨日の今日である、猿川はまだ怒っているだろうし、多分本橋の顔も見たくはないだろう。
 ではなぜ放っておかないのかというと、天堂が考え無しに「お水でも持っていってあげてください」と言ったとは思えないからである。
 彼は一見変態性癖を持ったおかしな男であるけれども、思慮深い一面があるのは確かで、だから本橋は彼の言葉が意味のあるものと信じるのであった。
 本橋は深呼吸をした。そして台所から足を踏み出し、猿川の部屋にゆっくりと向かった。
 出ていけと噛みつかれればそれまで、もしも迎え入れてくれたら、昨夜の件も含めて謝らせてもらおう。
 コップの中の水が、本橋から伝わる振動で小刻みに揺れる。
 扉の前に着いた。猿川はこの向こうにいる。
 なるべく何ともないような顔で、抑える術など知らないけれどもGlareを出さないように意識だけはして、極力刺激をしない声音で……。
「いお?」
「ッわ、エッ、はいっ」
 ノックをしようと右手を振りかぶった途端、中から自分の名を呼ぶ声がした。紛れもなく猿川の声であった。
 なぜ分かったのか。
 本橋は驚いてしどろもどろの返答をした。体をびくりと揺らしたせいで水が足元にバシャッと溢れた。
 すぐに扉が開き、中から猿川の顔が覗いた。寝ていたせいか髪の毛が中途半端に崩れていて、手で無理矢理かきあげたのであろうということが伺えた。
 彼は濡れた床を見て怪訝な顔をし、そして本橋の手元を見て納得したような顔をした。
「これ、お水、喉乾いたでしょ」
「……ン」
 本橋は水を溢したことに気付かず、緊張で乾いた口から無理矢理言葉を押し出しながらコップを猿川に差し出した。
 猿川は大方水の溢れてしまった軽いコップを受け取ってゴクリと一気にあおると、「入れよ」と言って扉の中に戻っていった。
 本橋は啞然とする。もっと激しく抵抗されるものと思っていたから、勇者にしか引き抜けない聖剣を思わず引き抜いてしまった主人公のような顔をしておずおずと歩を進める。
 先程溢した水を裸足で踏んでいることにも気が付かずに中に入って後ろ手に扉を閉じると、猿川は床に胡座をかいて顎でこの前に座れと示した。
 この部屋には何度も出入りをしているはずが、想定外の歓迎のせいで本橋の態度は妙にしゃちほこばり、「ア、ハイ……」と小さな声で言って猿川の前に正座した。
「いおもあいつに何か言われたんだろ」
「あ、あいつ?」
「天彦」
「あ、うん。天彦さんね……」
「……あのことも聞いたんだな」
「あのこと?」
 猿川の態度は飽く迄も以前と変わらなかった。
 本橋は正座を崩し、自分も胡座をかいて猿川の言葉に応えた。
 本当は開口一番に謝りたかったが、先を越されてしまった。
 「あのこと」とは何を指すのか分からないが、体調のことならば聞き及んでいるので曖昧に頷いてみる。
 すると猿川は大きな溜め息を吐いて、それから本橋の目をジッと見つめた。これは獲物の品定めをする肉食獣と同じ仕草であった。
「いいか」
 猿川は低く言った。
「これは互いのために必要だからやるんだ。俺は俺の、お前はお前の欲求を解消するためだけの行動ってことを忘れんなよ。お前が例えば変な気ィ起こして俺を支配の下に置こうモンなら……」
 分かってるな?
 最後まで口には出さなかったが、猿川の目はこう言った。
 そして本橋は……、分からなかった。互いのためとか必要だとか、何の話をし始めたのかとびっくりしてしまった。大きなすれ違いが起こっているらしいことを察して、本橋は小学生みたいに右腕をピンと宙に掲げた。
「ごめん猿ちゃん、何の話?」
「あ?」
「え? 僕が天彦さんから聞いたこと、『体調良くなったよ。水持ってってあげて』くらいだったけど」
「は? じゃあどこまで聞いたんだよ」
「多分猿ちゃんが話そうとしてることに関しては何も聞いてないと思う」
「え、じゃあ、あいつ何しに来たのお前のとこに」
「分かんないけど……、じゃあ猿ちゃんが教えてよ。『俺のこと』って何なの?」
 猿川の顔から険しい表情が消え、いつものような表情が帰ってきた。本橋はそれを見て少しホッとし、先の猿川の言葉の意味について尋ねる。
 猿川は低い声でウーンと唸った。そしてフゥと大きく溜め息を吐くと、今度は短く息を吸って話し始める。
待っている!いつまでも!